ikitikaのブログ

毒親から自分を取り戻すまでの記録

毒親の旅立ち

昨日、母が亡くなりました。

5年間病院で過ごしたせいか、肌もきれいなまま。

だいぶわがまま言って看護師さんを困らせていたようです。

私ははじめ何回か面会に行きましたがその後は面会に行けませんでした。

どんなに時間をかけても一瞬で元の主従関係になってしまう恐ろしさ、

その時の力でコントロールしようとすることへ抵抗できない自分、病院へいれてしまったといううしろめたさ、すべてがあいまって母が怖い。

4年は会っていませんでした。

 

母の意識がなくなったという一報を聞いたときは、もう死ぬまで母の病院にはいかないと思っていたけれど、

その後1日、2日となんの連絡もなく、死んだの?生き返ったの?何となく気になっていたところへ連絡が。

いよいよ酸素が入っていかず、呼びかけにも応じないと。

 

仕事中でしたが、母の意識がないことを話したら何も知らない同僚から、会いに行ったほうがいいよと背中を押され、何となく職場を後にしました。

 

何度も通った病院につくまでの道乗すがら、入院させるのが大変だったこと、入院してから2年ぐらいは退院してくれと主治医から言われ、何度も病院に通って受け入れ先を探したり、施設に入れた時のまた面倒を起こすさまが目に浮かび途方にくれたり、家に帰ってくるかもしれないから弁護士を頼んでおこうと父と対策を練り、また病院へ行き・・・本当に大変だった日々を思い出して、具合が悪くなりながら向かいました。

 

先についていた父も顔色が悪く、聞けば同じことを考えていて。

私と父がお母さんに会いに来たことに気づかれると、むくっと起き上がって

「お前たちなんてことしてくれたんだ。一生許さない」

いや、もっとひどい暴言かもしれないけど

なにか言われるんじゃないかと父も考えていました。

 

いわゆるトラウマですね。

看護師さんに血圧と酸素の濃度、酸素飽和度を聞き、やっと死期が近いと納得し、会ったほうがいいかもと思い始めました。

そんな話をしていたら母の友達と母の兄が来てくれ、二人でやっと病室に行く覚悟ができ病室に向かいました。

 

母は酸素マスクをして点滴をしていました。

呼吸は荒く、下あごが上下して一見あえいでいるように見える下顎呼吸です。

苦しそうに見えますが、本人は苦しくない。

3日間意識がないので、点滴も体液と同じもののみの投与でした。

亡くなる前は過剰な栄養の点滴は本人の負担になり、苦しくなります。

だいぶ楽だったのではないかと思います。

手足がむくんでいるのでもう腎臓などの臓器の機能はほとんどしていないのではないかと思いました。

髪は毎月染めていたらしく白髪はなく、それがまた若々しく見えます。

手も足も皮膚も、大好きだったお母さん。

手を握ると振り払ったのか、握ったのか、意識がなく動かしただけなのか、私の手を振り払った感じ。

声は最期まで聞こえるので、耳元でいいたいことだけ言おうと。

「お母さん、来たよ。私。」

・・・

もちろん反応はなく。

「うちの子、小学校3年生になったよ。元気。」

・・・

「肌も髪も相変わらずきれいだね。やせたね」

・・・

最期って言われてもいつもの会話しか出てこない。

 

いろいろいろいろあったけど、私、この世にいて、生まれてきてよかったわ。

 

「生んでくれてありがとう。」

 

こんなところで感謝が出てくるなんて。。

 

「お母さん、寂しかったね。」

反論されないとやさしくなれる自分がいて。

 

「二人目の孫ができたら殺すって言われたけどできなかったよ」

ちょっと恨み言を言ったりして。そんなこと言ってないって絶対言いそう。

起き上がったらどうしよう・・・

 

ちょっと下顎呼吸が穏やかになった?

聞こえているよね。

母が涙流すとかあるかと思ったけど出ない。

そりゃないわ。今までもなかった。心が通じたととなかったもんね。

 

最後かもっていう思い、信じられない思い、恨み、さみしさ、もういろいろいろいろ

入り混じって大パニック。

手足がまだきれいな色をしていたので数日は大丈夫かと思っていたのですが・・・。

 

母との対峙でどっと疲れた私はコンビニで甘いコーヒーとチョコバーを買って帰って

あったかいストーブの前で食べて寝ました。

不思議なことにチョコバーがまずくて。

 

1時間ぐらいして父から

亡くなった連絡が病院から来ました

と連絡を受け、

 

終わったんだな

 

そう思ったら体の力が抜けて、しばらく呆然としてしまいました。